
「水口さん、この比較表見てもらっていいですか」
隣の席の篠塚がノートパソコンを抱えてやってきた。まだ二十代の後半、頭の回転も速いし、仕事も悪くない。ただ、提案書を作るときにすぐカタカナを増やしたがる癖がある。
「ここ、UI/UXの最適化って書いたんですけど、先方に伝わりますかね」
私は篠塚の画面を覗き込んだ。
表はきれいだった。だが相手先は、社内の紙の申請書がまだ現役の会社だ。
「伝わらないだろうな」
「ですよね」
「『画面が見やすくて、入力しやすい』でいいよ。たぶんそのほうが刺さる」
「あー、なるほど。ありがとうございます」
篠塚は素直に打ち直し始めた。
その横顔を見ながら、私は妙な気分になった。百日後には、こういうふうに誰かの画面を覗き込んで、言葉を直すこともなくなるのだろうか。若い連中は若い連中で勝手にやっていく。困ることもあるだろうが、結局は回る。会社はそういうものだ。
それでも私は、篠塚の画面の「UI/UX」を消して「画面が見やすい」に直したあと、比較表の順番まで少し入れ替えてやった。ついでに導入後のフォロー体制を一行追加しておく。先方が年配の社長なら、そこを見て安心する。
「ありがとうございます。水口さん、こういうのほんと上手いですよね」
篠塚は何気なくそう言った。
私は、ほんの一瞬だけ手を止めた。
上手い。
そう言われることが、最近ほとんどなかった気がした。営業成績なら上には上がいる。新しいツールの使いこなしなら若い連中のほうが速い。管理職になるわけでもなく、かといって現場のエースでもない。ずっと「いてくれると助かる人」くらいの位置でやってきた。
いてくれると助かる人。
百日後には、いなくてもいい人。
「まあ、いいか」
「え?」
「いや、なんでもない」
私はごまかすように笑って、自分の席に戻った。
帰りのエレベーターで、鏡に映った自分を見た。
紺のスーツに、くたびれたネクタイ。髪はだいぶ薄い。腹も少し出た。若作りする年齢でもないが、老人というにはまだ早い。その中途半端さがいちばん厄介だった。
一階のロビーを抜けると、夕方の空気は少し冷たかった。
新卒のころ、このビルに初めて入ったときは、もっと大きな会社に見えた気がする。いや、会社が大きかったのではなく、私が若かっただけかもしれない。
帰りの電車で、スマホを見る。
桑元からメッセージが入っていた。
今日、飲めるか?
一つ年上の桑元は、今は関連会社で再雇用の身だ。この前会ったときは、「年下の課長に日報の書き方で注意された」と言って、ひどく機嫌が悪かった。あの男は昔からプライドが高い。いや、高いというより、自分がどれだけ働いてきたかをちゃんと覚えていてほしい人間なのだ。
私はしばらく画面を見てから、短く返した。
今日はやめとく。また今度。
送信して、すぐに後悔した。
たぶん今日は、誰かと飲んだほうがよかった。だが、今の私は人に話せる顔をしていなかった。
家に着くと、玄関に妻のスニーカーがそろえてあった。
キッチンからは味噌汁の匂いがする。テレビではニュース番組が流れていた。
この家は何も変わっていない。変わったのは私だけだ。そう思うと、少しだけ腹が立った。
「おかえり」
妻は振り向かずに言った。
私はネクタイをゆるめながら、「ただいま」と返した。
食卓には鯖の塩焼きとほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁が並んでいた。
私は箸を持ち、しばらく黙って食べた。妻も特に何も言わない。長く夫婦をやっていると、会話のない時間にも、それなりの意味が出てくる。
「今日さ」
ようやく口を開くと、妻は「うん」とだけ言った。
「会社で、話があって」
「異動?」
「いや」
私は鯖の骨を皿の端に寄せた。骨をきれいに外すことだけが、妙にうまくいった。
「百日後に辞めることになりそうだ」
妻の箸が止まった。
「辞めることに”なりそう”って、なに」
「退職勧奨、ってやつかな。まあ、実質そういうことだ」
妻は私の顔を見た。
驚いてはいたが、取り乱しはしなかった。そこがこの人らしい。
「再雇用は?」
「あるかもしれないけど、たぶんろくな条件じゃない」
「そう」
それだけ言って、妻は味噌汁をひと口飲んだ。
私はその反応が物足りないような、ありがたいような、よく分からない気分になった。
「もうちょっと驚かないのか」
「驚いてるわよ」
「そう見えないけど」
「驚いたって、会社が決めたことはひっくり返らないでしょ」
正論だった。
正論は、たいてい少し痛い。
「まあ、いいか」
妻がすぐに言った。
「よくないでしょ」
私は思わず笑ってしまった。
今日初めて、少しだけちゃんと笑えた気がした。
「だよな」
「で、どうするの」
その問いは、静かだった。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ現実として置かれた問いだった。
「分からん」
私は正直に言った。
「でも、百日あるらしい」
「百日」
妻は少しだけ眉を上げた。
「中途半端に長いわね」
「だろ」
「嫌ねえ」
「嫌だなあ」
そう言って、私たちはしばらく黙った。
テレビでは若いアナウンサーが、景気の見通しだかIT投資の伸び率だかを明るく読み上げていた。私が今日まで売ってきたものの話題なのに、急に遠い世界みたいだった。
食後、私はリビングのソファに座り、ノートパソコンを開いた。
「六十代 転職」「IT営業 再雇用」「シニア 仕事」などと検索してみる。求人サイトの画面には、未経験歓迎だの、若手活躍中だの、柔軟な働き方だの、そんな言葉が並んでいた。柔軟に曲がれるのは若い枝の方だろう、と妙なことを思う。
私は検索窓を消して、真っ白なメモ画面を開いた。
カーソルが点滅している。
そこに、なんとなく打ち込んだ。
あと100日
画面の上に、その文字がぽつんと浮かんだ。
思ったより、重くなかった。重いというより、変に整っていた。締切のある案件みたいで、嫌に現実的だった。
百日あれば、引き継ぎはできる。
百日あれば、机の中も片づく。
百日あれば、客先にも挨拶ができる。
百日あれば、次のことも考えられる・・・のかもしれない。
私はキーボードの上に指を置いたまま、しばらく考えた。
それから、その下にもう一行だけ打った。
60歳。まだ終わりとは決めない。
打ってすぐ、気恥ずかしくなって消そうかと思った。
こんなのは若い頃なら絶対に書かなかった。いや、若い頃のほうがむしろ、こういう青臭いことを書いていたかもしれない。忘れていただけだ。
背後で、妻が洗い物を終える音がした。
流しから水音が消えると、家の中がひどく静かになった。
その静けさの中で、私はもう一度「60歳。まだ終わりとは決めない」という文字を見た。
他人が書いたみたいだった。けれど、私が書いたのだ。
「まあ、いいか」
けれど今度のそれは、今日の会議室で口にしたときとは、少しだけ意味が違っていた。
流すための言葉ではなく、まだ何も決まっていない現実を、とりあえず引き受けるための言葉だった。
百日後、私は無職になる。
そのことだけは、もう決まっている。
だったら残りの百日で、会社を辞める準備だけじゃなく、その先の自分を、少しは探してみてもいいのかもしれない。
次回は4月10日午後6時ごろ更新予定です。



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