
4月1日から全十回にわたり、「100日後に無職になる自分」を連載します。
概ね10日ごとに1話掲載する感じですね。
まあ、実際は全部書き上げてあるのですが、今回は予告編としてオープニングを掲載しますので、読んでいただければうれしいです。
第1章 あと100日(1)
「水口さん、少しお時間よろしいですか」
午後三時四十分。
営業部に戻ったばかりの私は、部長の声に顔を上げた。
穏やかな顔だった。穏やかすぎるほど穏やかな顔だった。
得意先への障害報告のときも、新人がやらかしたミスの火消しをするときも、この人は大体同じ顔をしている。怒鳴りもせず、かといって心底こちらに寄り添うわけでもなく、ただ静かな声で「では、対応を考えましょう」と言う。
全国展開するうちの会社では、そういう顔が管理職に向いているのだろう。
「会議室、いいですか」
「ああ、はい」
私はノートパソコンを閉じた。
ちょうど、地方の製造業向けのクラウド勤怠システムの資料を直していたところだった。派手さより見やすさ、横文字より相手の言葉。そういうことを考えて直していると、いつも時間がかかる。
会議室の窓は西日で明るかった。
ブラインドが半分だけ下ろされていて、白いテーブルの上に細い影が何本も落ちている。部長が私に座るよう促し、向かいに腰を下ろした。机の上には紙コップのコーヒーが二つ置いてあった。私の分まで用意されているのが、なんとなく嫌な感じがした。
「急な話で申し訳ないんですが」
その言い方で、だいたい分かった。
私は六十歳だ。
会社の空気には、それなりに長く当たってきた。提案が通る前の空気、契約が飛ぶ前の空気、誰かが異動になる前の空気、誰かが外される前の空気。会社という場所は、肝心なことほど、口に出される前に匂いがする。
「水口さんもご存じの通り、会社全体で組織の見直しが進んでいます」
部長は資料も見ずに言った。こういう文句は、たぶん何度も練習しているのだろう。
「営業体制の再編と、今後の若手登用の流れの中で……」
若手登用。
便利な言葉だ。
誰も傷つけないふりをしながら、ちゃんと誰かを外せる。
私は黙って頷いた。頷くしかない。ここで「つまり何ですか」と聞いたところで、返ってくる言葉は決まっている。
「水口さんには、今後のキャリアについてご相談したいと思っています」
ほら来た、と思った。
今後のキャリア。
要するに、退職だ。
部長は私の顔色をうかがうように、一拍置いて続けた。
「もちろん、いきなりということではありません。引き継ぎやご都合もあるでしょうし、会社としても最大限配慮します。ただ、ひとつの区切りとして……三か月強、百日ほどを目安にしていただければと」
百日。
その数字だけが、妙にはっきり耳に残った。
三か月、と言われるより具体的で、四捨五入の逃げ道もない。百日後、私はこの会社にいない。
「退職、という理解でいいんでしょうか」
自分の声が思ったより普通で、少し驚いた。
部長はやわらかく頷いた。
「会社としては、前向きな選択肢の一つとして考えていただければと。条件面については人事から改めて説明します。水口さんのこれまでの貢献には、本当に感謝しています」
本当に感謝している人間を、百日後に会社の外へ出すのか。
そういう皮肉が頭に浮かばないでもなかったが、口には出さなかった。
六十にもなると、言っても仕方のないことが増える。
「再雇用という形は」
聞いておくべきことだと思って、私はそう口にした。
部長はほんのわずかに視線を落とした。
その一瞬で、答えは出ていた。
「可能性がゼロではありません。ただ、今回の再編の流れの中では、水口さんにとって必ずしも望ましい条件にはならないかもしれません」
望ましい条件にはならない。
席はあるかもしれないが、いたいと思える席ではない、ということだ。
私は紙コップを持ち上げた。コーヒーはぬるく、少し苦かった。
「まあ、いいか」
口をついて出たのは、いつものその言葉だった。
部長は少しだけ安心したように見えた。
たぶん私は、扱いやすい社員なのだろう。怒鳴らない、机を叩かない、その場で辞表も投げない。長年営業をやっていると、「感情を表に出さない人間」のほうが便利に使われる。そのぶん、自分でも本音の出し方を忘れる。
「お気持ちは、いろいろおありでしょうが……」
「いえ」
私は笑ったつもりだったが、ちゃんと笑えていたかは分からない。
「まあ、急に言われても、ってのはありますけど」
「そうですよね」
「百日、ですか」
「はい」
「きりがいいですね」
自分で言って、自分で少しおかしかった。
部長も困ったように笑った。会議室の空気だけが、妙に丁寧だった。
話はそれで終わった。
人事との面談の日程、外向けにはどう説明するか、担当案件の棚卸し、引き継ぎの準備。実務の話に移ると、私は少し落ち着いた。
やることがある間は、人はまだ壊れない。
会議室を出ると、営業部のフロアはいつも通りざわついていた。
オンライン商談を終えた若手が、ヘッドセットを首にかけたまま笑っている。隣の島では来期の営業戦略についてモニターにグラフを映しながら打ち合わせをしていた。チャット通知の音、コピー機の稼働音、誰かの「それ、今日中でお願いします」という声。
全部、いつも通りだった。
私の席も、いつも通りそこにあった。
モニター二枚、ドッキングステーション、スマホ、タブレット、客先別に色分けした付箋。
パソコンを開くと、社内チャットが六件、メールが十四件、新規問い合わせが三件入っていた。
私はしばらく、その画面を見ていた。
百日後には、このログインIDも消えるのだろう。このメールアドレスも、このチャットのアイコンも、この社内システムの権限も、きれいに無効化される。
会社というのは便利だ。人の存在まで、アカウントみたいに停止できる。
続きは4月1日午後6時ごろ掲載予定です。



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